難民として米国移住した日本人たち


 

「アメリカに行けば将来が変わる」

ロサンゼルス空港に近いウェストチェスター在住の西屋国弘さんは、構造設計が専門である。彼もまた難民として渡米してきた一人である。

西屋さんは鹿児島県串木野市の出身。小学校を出るとすぐに日本通運の事務所に就職した。「同じ事務所で、旧制中学を出た人と同じ仕事をしていても、学歴から来る差別がある。それが嫌だった」。そんな時、農業研修生としてアメリカを見てきた内田善一郎さんから「アメリカは素晴らしい国だ」という話を聞かされた。どんどん夢が膨らんだ。自分もアメリカに行けば将来を変えることができると思えた。

申請する少し前に鹿児島にデラ台風が上陸した。その災害が適用されて難民救済法で渡米できることになった。1956年のことだった。西屋さんは早くに父親を亡くし、母一人子一人だったが、母は「お前の将来にかかわることだから好きなようにしなさい」と背中を押してくれた。

西屋さんが向かったのはメルスビューという名のキャンプだった。サンフランシスコ空港からの道すがら、巨大なフォークリフトが幾台も捨ててある光景は衝撃だった。「日本は凄い国に戦争を仕掛けておったんだなあと思った」

さらにショックだったのはメルスビューで目にしたバラック小屋だった。「日本では華やかに送り出されたのに、辿り着いた場所がバラック…」。しかも 西屋さんは農業の経験がなかった。それでも時給90セントは当時の日本から来た者にしてみれば高給だった。周囲には何もないので、お金を使うこともない。給料のほとんどを日本へ送金した。

農場で働く約束は3年だったが、2年経った頃、西屋さんは串木野の後輩とサンフランシスコへと向かった。そのまま戻らなかった。
「日本にいる時から英語を独学で勉強していたのに、農園の中は日本人だけ。全然英語を使う機会も学ぶ機会もない。これではいかんと思った」

庭師から専門職へ

やがてロサンゼルスに行けばガーデナー(庭師)として稼げるという情報を得て、西屋さんは南カリフォルニアへとやって来た。白人の家に住み込んでロサンゼルスシティー・コミュニティーカレッジに通い、建築を学んだ。日本から妻を迎えた後、アリゾナの大学に入学。ガーデナーの仕事を現地で続けた。卒業後、ロサ ンゼルスの設計事務所に就職し、1999年に独立した。

最後に「アメリカは何をくれたか」という問いを投げ掛けた。西屋さんの答えは「アメリカという国は、自分でやったことがすべて自分に返ってくる。やればやっただけ報われる国。ここで教育を受けたことで、今の私がある」というものだった。

日本では小学校を出ただけの青年が、海を渡り、農業で苦労した末に、大学を卒業し専門職に就いた。努力をすればアメリカの扉は開かれるのだということを、自ら実証した人生だと言えるだろう。
(取材時期 2005年)

Author

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)