難民として米国移住した日本人たち
日航機太平洋就航の年に渡米
難民救済法によって渡米してきた鹿児島県出身者は約300名。その中の1名が、日置郡出身、現在はモントレーパークに暮らす宮内武幸さんだ。鹿児島 では狭い土地を切り開く開拓農業に従事していた宮内さんにとって、広大なアメリカの大地での就労は願ってもないチャンスに思えた。そして、1955年10月、日本航空が初めて太平洋線を就航させた年に、宮内さんは日航機で海を渡った。
彼の目的地はサンフランシスコの内陸にあるデラノキャンプ。人手が必要なブドウの収穫期を前に、1日でも早く着くようにと、経営者が飛行機代を立て替えてくれたと言う。当時のお金で750ドルだった。
「日本では役場の日当が285円。1ドル360円の時代。つまり、飛行機代の750ドルは、2年以上の年収に相当する金額だった」
飛行機はハワイに立ち寄った後、サンフランシスコ空港に到着した。空港にはデラノキャンプの経営者である川崎常楠さんの息子が迎えに来てくれていた。夜の10時に、彼が運転するステーションワゴンに乗り込み、デラノのキャンプに到着したのは朝方だった。「何もない所だった。果てしなく続くブドウ園 に、ぽつんと貨車が並べられていた」。その貨車が、農場の就労者たちの寝泊まりする宿舎だった。
永住権をスポンサーしてもらうかわりに、デラノに住み込んで3年働くというのが提示された条件だった。当時のカリフォルニア州の最低賃金は75セントだったが、手先が器用な日本人には特別に時給95セント払ってくれた。しかも、ブドウを摘む仕事では、時給は1ドル5セントに跳ね上がった。
「2月から4月の間は仕事がなくなる。それでも1日2ドルの宿泊費は川崎さんに払わないといけない。私は川崎さんにお願いして、ブドウの仕事がない間、ロサンゼルスに出て働くことにした。ガーデナーのヘルプをして、1日15ドルの収入。きつい仕事だったが、農業の経験があったので大丈夫だった」
永住権スポンサーへの恩
宮内さんは、渡米する前に結婚していた。渡米は独身が条件だったが、妻を呼び寄せたいと思うようになった宮内さんは、約束の3年より少し早くデラノを出ることにした。川崎さんはそこまで就労者を拘束することはしなかったようだ。
デラノを去った宮内さんは、土地勘のあるロサンゼルスで妻と生活を始めた。仕事はガーデナーと七面鳥のヒナの鑑別士。さらに株の仕事にも従事した。
1962年に家族で一時帰国した時は、旅費だけで2千ドルかかった。今から40年以上前の2千ドルである。さらに日本では半年間、仕事をしないで滞在できたということだ。
「川崎さんには働いていた皆で集まってギフトを贈り、また、勲六等瑞宝章をもらえるように運動もした。中には、ひどい施設に寝泊まりさせて、仕事もないのに呼び寄せたと、川崎さんのことを言った人もいた。しかし、そういう人は被害者意識が強いとしか思えない。また、内田さんは恩人であり、移住者にとってのヒーローである。第二次大戦中にニューギニアで助かった命だからと、戦後は人のために生きていこうという強い意志で、さまざまなことに取り組んで いた」
永住権のスポンサーをしてくれた農場主の川崎さん、そして渡米のきっかけを作り尽力してくれた内田善一郎さんへの感謝の気持ちを、宮内さんはかたときも忘れたことはない。
(取材時期 2005年)