日系ペルー人の終わらない戦後


 
日本人狩り

カリフォルニア州サウストーランスの自宅で出迎えてくれたマイク・中松さんは1938年のリマ生まれ。沖縄出身の日系2世だ。検眼医を引退した現在 は、夫人のアイコさんと海外旅行するのが楽しみだと話す中松さん。その穏やかな表情から、ペルーからの強制連行と収容所生活、アメリカに残留して家族でゼロからの出発を余儀なくされた過去を読み取ることは難しい。

両親はリマ郊外で食料品店を経営していた。ペルー日系社会での実力者でもあり、日系人が稼いだお金を日本本国へ送金する組織の役員も務めていた。

第二次大戦中のペルーでの日本人狩りの対象となった中松さんの父親は、1943年、突然、家族の前から姿を消した。翌44年に母親と6人の子供たちは、父が待つアメリカ、テキサスのクリスタルシティー収容所に向かった。収容所の中の学校に進学し、生活言語はスペイン語から英語に切り替わった。戦争が終わった後は、日本へ帰る選択肢もあったが、母親が反対した。戦場となった沖縄は焼土と化しており、アメリカに残った方がまだ望みがあるのではないかと思ったからだそうだ。

親戚も知りあいも誰もいないロサンゼルスに、1947年に、中松一家は移ってきた。既に50歳になっていた中松さんの父親は、風船作り、イチゴ農園での労働に従事した。全財産をペルーに残してきた父は、家族を養うのに必死だった。中松さん自身もイチゴ農園で働いていたせいで、検眼医の学校に進学するのが遅れ、同級生は皆、年下だった。
 
「生きていくのに必死」

検眼医として働き続けた数十年後、アメリカ市民の水準以上の生活を送れるようになった中松さん。日系ペルー人が強制連行と収容に対して、アメリカ政府に賠償要求の運動を展開している時も、両親も本人も活動に加わることはなかった。「とにかく生きていくのに必死だったから」と話す。

中松さんの夫人も日系アメリカ人として収容所生活を経験している。夫人のアイコさんは今でもよく「戦時中の政府の日系人への態度はフェアではなかっ た」と振り返ると言う。しかし、母国から引き離されて連行された日系ペルー人の多くが、自分たちの過去の悲劇については沈黙を守っている。中松さん自身も その一人だ。幼い頃の自分に起った出来事をよりよく知るために、大人になってから、日系ペルー人の強制連行に関する本を何冊も読んだそうだ。それによって、自分の受けた体験と歴史的史実はリンクしたものの、それを第三者に伝えたことは一度もなかった。自分がペルー出身であることを積極的に明かすこともしなかった。中松さんの息子は日系ペルー3世ということになる。しかし、彼はルーツの国、ぺルーには興味を示していないそうだ。「彼が興味を持った時に初め て自分で調べ始めればいいこと。父親の私から強制する気は毛頭ない」と中松さん。

巨大な権力によってアメリカに強制連行されて運命を翻弄された日系ペルー人たち。戦後60年以上経った今、アメリカ一市民として平和な生活を送れて いることにただ感謝している彼ら。しかし、その平和な生活は、家族で一丸となり自力で基盤を作り育ててきたものだ。日本を離れ移住したペルーで成功した後に、再びアメリカ移住を余儀なくされた日系ペルー人が、中松さんが言うように「生活していくのが必死で、賠償運動など考えたこともなかった」というのは確 かに本音かもしれない、と思わされた。
(取材時期 2007年)

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