母国アメリカと戦った日系人たち


 

進駐軍の兄との対立

阿久根三郎さんは1926年カリフォルニア州中部の生まれ。7歳の時に、兄弟と共に親の故郷、鹿児島へ渡る。母親が亡くなったので、鹿児島の祖母の 元で暮らすらめだった。9人兄弟の上から6番目。名前の三郎は3番目の男の子だったからだ。父親は子供たちを故郷に連れて帰ると、すぐに仕事をしにアメリ カに戻っていった。兄弟だけで残された日本では、日本語がわからないだけでなく、年より下の学年に入れられたことも原因となり苛められた。抵抗するため に、三郎少年は剣道を習い始める。自分と兄弟たちを守る手段だった。

戦争が始まる前、上の兄2人はアメリカに戻った。そしてアメリカ軍へと入隊した。三郎少年と弟は日本軍に志願した。自ら入隊の意志を表明したのであ る。「当時はアメリカからの仕送りもなくなったので、家族が生活していくのが大変な時代だった。兵隊に入れば家族のヘルプになるのでは、という気持ちから だった」ところが、アメリカ国籍のせいで最初は失格となる。その後、海軍の飛行兵としての試験を受けた時は、日本生まれと書いて合格した。彼の中には、幼い頃から暮らした日本への忠誠心が芽生えていた。「軍でも、剣道や銃剣術を習っていたこともあり、上の方から随分可愛がってもらった」と阿久根さんは振り返る。

終戦を迎え、兄が進駐軍として日本にやって来た。再会した兄とは激しい言い合いになった。「僕は世界平和のために日本は戦争をしたのだと主張し、兄 は日本の幹部の連中の軍国主義のせいでこのような事態になったのだ、と譲らない。アメリカにいて、アメリカの生活をしている兄貴からすればアメリカの国に 忠誠を尽くすのは当然かもしれない。僕は日本にいて日本にお世話になってきた。だから、僕にとっての日本への忠誠もまた当然のことだった。兄貴の一人は米軍の情報部、一人は落下傘部隊だった。兄弟で敵味方に分かれていたわけで、もし直接に戦う場面があったとしても敵だと思って戦ったはず。当時はそういう覚悟だった」

 
原爆手帳の申請却下

戦後、阿久根さんは東京でアメリカ海軍の将校の家で運転手を務めていた。「兵隊をしていたので、戦後は仕事がなくなってしまった。しかし、米国市民権も取られてしまっていたので、生まれた国に帰ることもできない。そんな時、雇ってくれた海軍の将校が、僕をアメリカに連れて帰りたいと言ってくれた」。阿久根さんは戦前から戦後にかけての事情をその人に説明した。すると、アメリカの国会議員の協力を要請してくれ、市民権を取り戻せることになった。日本に残っていても生活が向上することはないと思った阿久根さんは、こうして渡米を決意したのだった。1953年のことだった。

「ところがサンフランシスコに着いて、先にアメリカに着いていた将校さんに電話すると、『ロサンゼルスに兄弟がいるならロサンゼルスに行け』と言われた。本当に偉い方だと思った。普通だったらビザの手配をしてくれたわけだから、すぐに俺の所に来て、その分だけ働いて返せ、と言うだろう。しかし、彼はそうしなくていい、と言ったのだ」。阿久根さんはロサンゼルスに向かい、そこでまた兄と再会した。「終戦直後の激しい兄弟喧嘩が尾を引いて、当時は兄貴も僕のことをあまり信用していないように思えた。しかし、兄弟は今では仲良くやっている。兄貴は僕のことを大切にしてくれる。喧嘩のしこりはまったくない」

ロサンゼルスでは働きながら、ライフワークとして剣道を広めることに貢献した。そうすることで日本のイメージをアメリカで高められると信じたから だ。ところがあるきっかけで、日本への信頼の気持ちが揺らぐことになった。阿久根さんは、1945年8月3日、原爆が落ちた30分後の広島市に軍の命令で 入っていた。27年ぶりに訪れた日本では、広島の役所に赴き原爆手帳の申請を行った。しかし、役所からは「アメリカ国籍、しかも被爆の証拠がない」という 理由で却下されてしまったのだ。「命令で広島に行かせておきながら、そんな馬鹿なことがあるだろうか。こちらには海軍時代の履歴書まであるのに」と阿久根さんは憤りを露にした。

阿久根さんは自らの体験から世界の平和を心から望むと繰り返した。それは、兄弟が分かれて戦い、生まれた国の国籍をはく奪され、さらに国籍の差別によって被爆の現実までも否定されてしまった者の心からの叫びに聞こえた。アメリカに生まれたにもかかわらず、日本軍兵士として母国と戦い、さらに戦後も運命を翻弄された日系人たち。世界平和のために、彼らの経験を少しでも多くの人に知ってほしいと筆者は望む。
(取材時期 2005年)

Author

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)