第一印象は「正直な人」
30年前に出会った1冊の本「花嫁のアメリカ」。戦後、アメリカ人将兵と結婚して海を渡った日本人女性たちの半生が綴られた内容に深い感銘を受けた私は、今もアメリカで生活している彼女たちの肉声を聞きたいと望んだ。時間はあまり残されていない。数名の知り合いにeメールで手助けを依頼すると、早速、ある知り合いがロペス文子さんという女性を紹介してくれた。最初に電話で文子さんと話した時、その闊達とした話し方が強く印象に残った。そして「私の身に起こったことはすべて事実ですから、お話致します」と快く取材を許可してくれた。
ロサンゼルスのダウンタウンから車で東に40分ほど移動した場所にある、閑静な街オンタリオ。文子さんは、その歴史保存区内に6ユニットのアパートを所有し、自らもそのうちの1軒に住んでいた。
ご主人のルイス・ロペスさんが10年前に癌を患い亡くなった後に、住んでいた一軒家を貸し出し、今のアパートに引っ越してきたそうだ。実際にお目にかかった文子さんは、84歳には見えない若々しさ、小柄で凛とした眼差しの女性だった。ロサンゼルスで生まれ育ったメキシコ系アメリカ人のルイスさんとは、彼がGIとしての赴任期間も残り僅かな時期、東京で1955年に出会った。そして日本で結婚、56年に夫婦でアメリカに渡ってきた。
文子さんは1932年東京の生まれ。戦時中、父親の郷里の岩手県に疎開し、そこで学校を終えた。盛岡市内の電信電話局に就職し、交換手を勤めた後、東京の品川にあった旭レーヨンに転職した。
「女性の下着を作るメーカーで、我が社から新橋のデパートや三越や伊勢丹に社員が派遣されて製品を販売していました。私もデパートの制服を着て、新橋デパートや新宿の伊勢丹で売り場に立っていました。靴下を売りましたが、成績が良かったんですよ(笑)。うちの主人とはちょうどその頃、友達の紹介で知り合いました。男女二人ずつのブラインドデートでしたが、うちの主人は結構しゃべる、私もしゃべる。それでお互い、しゃべる者同士が仲良くなりました」
文子さんは電話交換手だった時に英語の通話を担当していたこともあり、ヒヤリングには苦労しなかったそうだ。ルイスさんの第一印象を聞いた。
「そうですね。やっぱり正直な人、この人は嘘をついていないというのが私の彼に対する印象でした。言ったことは行動する。そして実際、その通りの人でした」
お互いに好印象を抱いた二人は、東京でデートするようになった。しかし、時代はまだ敗戦から10年しか経っていない時期。アメリカ人将兵と並んで歩く日本人女性を快く思わない日本人は少なくなかった。
「ある時、上野公園を主人と歩いていた時、どこからか石が飛んできたことがあります。当たりはしなかったけれど、私たちをめがけて投げたのは明らかでした」
弁当箱一つだけ持って家出
文子さんの家族、特に父親もまた、文子さんがアメリカ人男性とつき合っていることに心を痛めていた。「4人きょうだい(弟一人と妹二人)の長女だった私は両親に可愛がられて育ちました。朝目覚めると、枕元に私のためのお菓子が用意されていました。そう、おめざ、ですね。その言葉、久しぶりに聞きました」
手塩にかけて育てた娘がアメリカ人将兵と会っていることを、父は言葉には出さずとも悩んでいた。しかし、父の気持ちを知らなかった文子さんは、ルイスさんが新しい赴任先の滋賀県大津市から東京駅に迎えに来ると、仕事先のデパートから弁当箱一つだけ持って未来の夫と共に家出をしたのだった。
「大津の小さな部屋に息を殺すようにして住んでいた時、警官が私を訪ねてきたのです。そして家族が私を探していること、父が倒れてしまったことを聞かされました。警察がどうやって私の居場所を突き止めたのか不思議に思いながら、ともかくも主人に帰省するお金をもらって、すぐに東京の実家に戻りました」
実家に着くと、脳梗塞で父親が倒れたのはすべて姉が心配をかけたせいだと弟に責められた。しかし、実は既に家族には秘密で結婚の手続きを始めていた。文子さんはそれを反古にし、倒れた父のかわりに自分が家に戻って働く道しかないのかもしれないと思った。母に「どうしたらいいだろうか」と、迷いをぶつけると、母親は「あなたの思ったようにしなさい。私たちのことは心配しなくていいよ」と答えた。「明治生まれの母は偉いですよ。もし、あの時、母が『ガイジンさんと結婚しないで。ここにいて』と言ったら私の運命は変わっていたでしょう。84歳になってつらつらと自分の人生を振り返ると、あの時がまさに私の分岐点だったと思えます」
子どもの行く末を案じるのも親心なら、自分の子どもの望みを叶えてあげたいと望むのもまた純粋な親心だ。文子さんは母親の言葉に背中を押され、ルイスさんのもとに戻った。申請から3カ月と20日かかった結婚も無事に受理された。そして、「General Men」という名の海軍の船で太平洋を渡り、結婚が受理された90日後にはサンフランシスコに入港した。
「絵はがきでしか見たことがなかった、あの赤い金門橋をくぐった時の気持ち、今でも忘れることはできません。なぜならば、頼りになるのは主人一人。親兄弟もいず、友達も一人もいず、そしてお金も何もなかった。アメリカに着いた感激と希望と同時に、恐怖心にも襲われました。でも正直者の主人と一緒だったら頑張れるだろう、それだけが心の支えでした」
オリジナル:全米日系人博物館運営Discover Nikkei 【2016年6月】
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